超高線量環境下で動作するWi-Fiチップの開発に成功
2026年3月31日
ポイント
- 極めて過酷な放射線環境である原子炉内部では、一般的な無線通信機器は短期間で性能劣化を引き起こす可能性があり、無線ネットワーク導入の大きな障壁となってきた
- シリコンCMOSプロセスを用いて放射線耐性を飛躍的に向上させた回路構成を提案し、500 kGyの超高線量環境でも壊れないWi-Fiチップの開発に成功
- 原子炉内部の通信を無線化することで、より安全で効率的な廃炉作業に貢献するとともに、宇宙や核融合など将来の国家的プロジェクトにも展開可能
概要
東京科学大学(Science Tokyo)総合研究院 未来産業技術研究所の成清泰斗大学院生、白根篤史准教授、高エネルギー加速器研究機構(KEK)素粒子原子核研究所の宮原正也准教授らは、シリコンCMOSプロセス[用語1]を用いて超高線量環境下で動作するWi-Fiチップを開発しました。東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う廃炉作業を安全に効率よく行うため、作業員の被ばくリスクを低減する無線ネットワークインフラの構築が重要な技術課題となっています。しかし、原子炉内部は極めて過酷な放射線環境にさらされており、一般的な無線通信機器や電子部品は短期間で故障や性能劣化を引き起こす可能性があり、無線ネットワーク導入の大きな障壁となってきました。本研究では一般的な高周波回路設計とは異なり、放射線耐性を実現するために、使用するトランジスタの数を最小限にし、かつ可能な限り大きいトランジスタサイズを用いることで、通信性能と放射線耐性を両立させる革新的な回路構成を提案しました。実際に東京科学大学においてガンマ線[用語2]の照射試験を行い、放射線耐性が求められる宇宙用半導体の数百Gy(グレイ)[用語3]のTID[用語4]を1,000倍以上上回る500 kGyの放射線照射後おいても、開発したWi-Fiチップは性能劣化がほとんど生じず、正常な無線通信に成功しました。さらに、通信性能も一般的なWi-Fiチップに劣らないレベルを達成し、提案した回路構成が原子炉内部で高い性能の無線通信を実現可能であることを示しました。
本研究の成果は、廃炉作業の着実な前進を支えるとともに、宇宙や核融合など将来の国家的プロジェクトにも展開可能な基盤技術として、日本の安全と技術力を支える重要な役割を果たすことが期待されます。
本成果は、2026年2月15日~19日(米国太平洋時間)に米国サンフランシスコで開催される国際会議「International Solid-State Circuits Conference 2026(ISSCC2026、国際固体素子回路会議)」で発表されました。


背景
2011年3月11日に発生した東日本大震災および、それに伴う東京電力福島第一原子力発電所事故から14年以上が経過した現在においても、同発電所では廃炉の完遂に向けた長期かつ困難な取り組みが継続されています。廃炉作業が長期化している要因は大きく2つあり、1つ目は事故当時に1号機および3号機で発生した水素爆発により、原子炉建屋が大きく損壊・崩壊している点です。これにより、建屋内部の構造は著しく複雑化し、瓦礫の堆積や設備の変形・損傷が広範囲に及んでいます。こうした状況は、原子炉内部へのアクセスを著しく困難にするとともに、作業計画の立案や機器の投入そのものを難しくする要因となっています。2つ目は、原子炉建屋および原子炉内部には、現在も高濃度の放射性物質が残存しており、作業員が直接立ち入ることのできる時間は被ばく低減の観点から厳密に制限されている点です。このため、廃炉作業の多くは人による直接作業ではなく、ロボットやドローンなどの遠隔操作型機器を用いて実施されており、これらの技術は廃炉作業を支える不可欠な要素となっています。
現在、原子炉内部やその周辺で運用されている遠隔操作機器の多くは、有線LANケーブルを用いて制御・通信が行われています。有線接続は通信の安定性という利点を有する一方で、損壊した建屋内部や瓦礫が存在する複雑な環境下では、ケーブルの引き回しが困難であり、複数機器の同時運用時にはケーブル同士の絡まりや干渉が発生しやすいという課題があります。また、ケーブルはロボットの可動範囲を制限するだけでなく、作業員の動線を妨げる要因ともなり、現場の安全性や作業効率の低下を招いています。
こうした課題を背景に、原子炉内部においても安定的に利用可能な無線ネットワークインフラの構築が、長年にわたり重要な技術課題として認識されてきました。無線化が実現すれば、ケーブルに起因する制約が解消され、損壊した建屋内においても柔軟な機器配置が可能となり、ロボットやドローンの機動性向上、作業工程の効率化、さらにはより高度な遠隔作業の実現が期待されます。
しかし、原子炉内部は極めて過酷な放射線環境にさらされており、一般的な無線通信機器や電子部品は短期間で故障や性能劣化を引き起こすことが知られています。原子炉内部では、燃料デブリから飛来するガンマ線が半導体素子の特性劣化を引き起こします。これにより、Wi-Fiチップの無線性能が劣化し、通信途絶や誤動作が発生するリスクが、無線ネットワーク導入の大きな障壁となってきました。
さらに宇宙用途などを対象とした既存の無線機は、おおむね衛星の使用寿命年数(2~3年程)で、数百Gy程度の放射線に耐えうるレベルにとどまっていることが先行研究で分かっています。これに対し、福島第一原子力発電所の原子炉内部では、それを1,000倍以上上回る500 kGyに達する極めて高い放射線量が想定されており、従来技術の延長線上では実現不可能なレベルの高放射線耐性の無線チップの開発が求められています。
研究成果
本研究では、極めて高い放射線環境下においても安定した無線通信を実現することを目的として、放射線耐性に実績がある65 nm CMOSプロセスを用いたWi-Fiチップの設計、試作および評価を行いました。超高線量環境である福島第一原子力発電所の原子炉内部では、燃料デブリから飛来するガンマ線が半導体素子の特性劣化を引き起こします。これにより、Wi-Fiチップの無線性能が劣化することが大きな課題となっています。
まず、65 nm CMOS プロセスにおいて放射線が引き起こす特性劣化の要因を特定し、一般的な高周波回路設計とは異なる設計指針でWi-Fiチップを開発しました。一般的な高周波回路設計では、高利得化や広帯域化を目的として多数のトランジスタを用い、さらに各トランジスタにおいては高周波特性が最大となるよう小さめのゲート長とゲート幅[用語5]のトランジスタサイズを選択するのが一般的です。しかし、本研究では放射線による劣化を抑えることを優先し、トランジスタの使用数を必要最小限に絞るとともに、トランジスタのサイズについても、放射線耐性を高めるために大きめの寸法を採用しました。65 nm CMOS プロセスにおいては、ゲート長やゲート幅の小さいトランジスタでは、チャネル周りに存在する酸化膜層に、放射線により発生する陽子がトラップすることにより電流値の減少などの劣化現象が報告されています。トラップされた陽子による影響範囲をトランジスタのゲート長とゲート幅を大きくして削減することにより、この劣化現象を軽減することができます。これらの制約の中でも高周波特性を損なわないような革新的な回路構成を提案しました。

次に、実際に放射線耐性を確認するために、東京科学大学総合研究院ゼロカーボンエネルギー研究所千代田テクノルコバルト照射室にてコバルト60線源[用語6]を用いて試験を行いました。その結果、本研究で開発した受信機は、先行研究で報告されている数百Gy程度の放射線耐性を1,000倍以上上回る500 kGyという極めて高い放射線照射後においても、信号利得劣化が1.4 dB程度、雑音指数[用語7]の劣化は1.3 dB程度となっており、性能劣化がほとんど起きないことを確認しました。無線通信の性能EVM[用語8]についても、500 kGy照射後においてIEEE 802.11n[用語9]の変調信号において64QAM[用語10]で十分な性能を達成し、正常な通信動作を維持できることを実証しています。
さらに、開発したチップは、Wi-Fi用受信機として既存の先行研究と同等レベルの性能を達成しており、高性能な無線通信システムの原子炉内への適用が可能です。
以上により、本研究で開発した受信機は従来の受信機と同等の通信性能を達成しながらも、放射線による特性劣化を抑え込み、極めて高い放射線耐性を実現することに成功したことが示されました。

社会的インパクト
本研究の成果は、現在も継続している福島第一原子力発電所の廃炉作業を、飛躍的に安全かつ効率的に推進するための基盤技術となることが期待されます。超高線量放射線環境下においても安定して動作する無線受信機の実現により、ロボットやドローンを用いた遠隔作業の無線化が可能となり、作業の柔軟性および機動性が大きく向上します。これにより、従来は困難であった複数機器の同時運用や高度な自律・協調作業が実現し、廃炉作業全体の効率化と信頼性向上に貢献します。
さらに、本研究で確立した超高線量環境下での無線通信技術は、福島第一原子力発電所の廃炉作業にとどまらず、幅広い分野への応用が期待されています。例えば、宇宙空間における放射線環境下での探査機や衛星内部通信、将来の核融合炉や加速器施設など、極限環境下での計測・制御・通信技術として展開することで、より信頼性の高い宇宙探査や、安全かつ効率的な施設運営、さらには素粒子原子核実験や加速器科学にも変革をもたらすことが可能です。
本成果は、災害復旧やエネルギー分野における安全性向上という社会的要請に応えると同時に、極限環境下での電子回路・無線通信技術の新たな設計指針を提示するものです。超高線量放射線環境という未踏領域において実証された本技術は、将来の社会インフラの安全性・持続性を支える重要な基盤技術として、国内外に大きな社会的インパクトをもたらすことが期待されます。
今後の展開
今後の研究課題として、本研究で開発した受信機にとどまらず、送信機を含む送受信一体型Wi-Fiチップセットの完成を目指しています。本チップセットが実現すれば、原子炉内部における双方向無線通信が可能となり、遠隔操作機器の制御性や情報取得が可能となります。
一方で、送信機回路は受信機に比べてトランジスタのドレイン‐ソース間を流れる電流が大きくなる傾向があり、特性変動や劣化の影響を受けやすいという課題があります。特に超高線量放射線環境下では、電流増加に伴うリークや動作点の変動が顕著となり、安定した送信性能を維持するための放射線耐性設計は、受信機以上に難易度の高い技術課題となります。
今後は、本研究で確立した受信機の放射線耐性設計指針を基盤としつつ、送信機回路特有の課題に対応した新たな回路構成やダイヤモンド半導体[用語11]を用いた更なる高放射線耐性の検討を進め、超高線量環境下でも実用可能な一体型Wi-Fiチップセットの実現を目指します。これにより、極限環境下における無線通信技術のさらなる高度化と、廃炉作業をはじめとする遠隔作業の安全性・効率性の一層の向上に貢献していきます。



